目からビーム
人の目からは光線が出ている。
出てない人もいるけれど、だいたい出ている。
目から出ているビームは悪いものではないけど、その威力が強すぎるとダメージを喰らいかねないので、つい逸らしたくなってしまう。
「あんまり目が合わないね」と言われることもあれば、
「よく目を見て話してるね」と褒められることもある。
真逆のことを言われているが、どちらも事実だ。
目を合わせられない人のことが嫌いとか、反対に好きだからというわけではない。
たぶん、あまり目を合わせてくれない人に対しては、自分のことを見ていない安心感から顔を見て話すことができるし、逆にすごい見てくる人には緊張して目が見れないのだと思う。ビーム出てるし。
自分のことをよく見られるのはやっぱり緊張するし恥ずかしい。
最近、同じ人をTwitterやInstagram上で何度も見かける。
同じ人、というのは本当の同一人物ではない。
容姿がとても似ている人を何人も見るので、区別がついていない状態だ。
わたしがその人を「◯◯さん」と認識していないからなのだけど、「この人、今週5人は見たぞ…」と誰かの自撮りを眺めながら心の中で思っている。
その人たちはみな美しい。スタイルが良く、とても整った顔立ちをしている。
悩みでも悪口でもブスの僻みでもない。
ただただ、区別がつかないなと思ってただけなのだが、ある日、わたしの中にある1つの考えが浮かんできた。
「美しさ、最終的に1つのものにたどり着く説」
人が美しいと思う顔に黄金比が存在するように、元が平均的な容姿だとしても、メイクやアプリでの加工などを駆使しながら美しさを研究していけば、最終的に何パターンかの似通った容姿になっていくのかなと考えたりしていた。
「美しさ〜説」とか生意気に言ってるけど、人形はみんな同じ顔をしているし、そんなのわたしが言わなくても自明だったね。わたしは顔がきれいな人に憧れる日もあるし、憧れない日もある。
一方で、わたしはおじいちゃんやおばあちゃんも全く見分けがつかない。
わたしがスーパーでレジ打ちをやっていたとして、同じおばあちゃんが連続で来たとしても気付かないと思う。
駐輪場に顔馴染みのおじいちゃんがいたとして、そのおじいちゃんが私服で町を歩いてたら、たぶんわからないと思う。
でもこれを言ったら、赤ちゃんも見分けつかないし、韓国のアイドルグループの人も見分けがつかないし、女子大生も見分けがつかないし、ハリウッド俳優も見分けがつかない。全員同じ人に見える。
もちろんわたしだって、他人から見たらそこらへんによくいる誰かだ。
つまり、知らない人はずっと“誰か”のままであって、わたしが誰かのことを個人として認識していない限り見分けがつくことはない。
SNSで見かける同じ人たちも名前と顔を覚えれば、ちゃんと全く違う人になるだろう。
わたしみたいに顔を出してない人は、もはや識別される必要ないのかもしれないけど、すずめ園の文章が読みたいと思ってもらえるようになりたいです。いつか。今度。
今日の1枚。
きらきらメロンパン。好きです。
全然今日の写真じゃない。